コラム
Column

2018.02.26 Mon

【第1週】遠い国での1年間 – 僕のドイツ交換留学

1.はじめに

2月、Ehle(エーレ)川の上で
 僕は YFU 財団の交換留学プログラムに参加し、2016年の夏から2017年の夏まで、1年間をドイツで過ごしました。気づけばもう11月中旬、あっという間に帰国から4ヶ月が経ってしまいました。
 僕たちは常に変化の中に生きていますが、それにしても、4ヶ月前の僕の生活と現在とは明らかに異質で、振り返ると「ああ、自分は遠い国にいたのだなあ」と感じます。国・言語・学校・家族といった、所属する社会のあらゆる単位が別のもので、そこには全く違った背景と生活があったわけだから、そう感じるのだと思います。ある日を境に全ての社会単位と生活が別のものになってしまうというのは、留学以外ではなかなか起こらないでしょう。そういう意味で、留学という体験はとても特異で奇妙な経験だと言っていいはずです。ここでは僕のそんな1年間の経験を、今の僕の視点からもう一度、一つの経験として整理し、再記録したいと思います。
 これを書いた時に僕が感じたことをまとめているので、主観的で、僕の感じたことを誰にでもあてはまるかのようにして言いすぎている点があるかもしれません。ご容赦ください。また、留学が「特別で優位な経験」だと言うのでは決してありません。同じ1年間の経験に優劣はないはずです。

2.きっかけと行き先の決定

3月、Magdeburg の歴史ガイドの方と
 僕は中2の頃に少しずつ留学に行きたいと思うようになりました。僕の学校の卒業生で現在は JICA(青年海外協力隊)アフリカ中東課長として活躍される方の講演と座談会が校内で開かれ、そこでオーストラリア・カウラへの留学の体験談を聞いたことがきっかけとなって、初めて留学に興味を持ち、また留学が想像を超えた遠い世界から急に身近で具体的なものへと引き寄せられたのです。そうして YFU、AFS、ロータリーのそれぞれのプログラムについて調べ始め、中3で試験を受けて、YFUには何とかギリギリで合格をもらうことが出来ました。担任のY先生には推薦状を書いていただき、本当にお世話になりました。
 講演にとても影響を受けて、その時は今すぐにでも発展途上国に行ってみたいと思っていましたが、少しずつ調べていく中で、結局は行き先への強いこだわりはなくなりました。というのも、国という単位で行き先を選んだ時、歴史的・文化的・政治的背景や言語など事前に予想しうるものも少しはありますが、実際の出会いは予想して選べるものではないはずだと思ったのです。単純に言えば、アメリカに留学してもホストファミリーがインド人かもしれないし、ドイツに行ってもトルコ人のホストファミリーになるかもしれない、ということです。そして、そんな場合にも留学の本来の目的も価値も、少しも変わることはないはずです。もしも人との出会いに対して「どこの国だから」とか「なに人だから」といった偏見で「価値」を測ろうとする思考を脱せないまま留学に行く人がいるのなら、僕には賢明と思えません。また、もともと言語だけが留学の目的ではないと思っていましたし、複数 の外国語を学ぶことが僕にはとても面白く感じられたので、むしろ非英語圏への留学を希望しました。
 どこに行っても意味があるとわかってくると、行き先の国を選ぶのは余計に難しくなります。それでも僕が最終的に行き先をドイツに定めた理由は、YFUドイツによって様々なサポートや研修が用意されていたことと、ドイツ近代史といまの社会のあり方に興味があったからです。そして、根拠のない話ですが、直感的に「肌に合うのではないかな」とか「ここにはぜひ飛び込んでみたい」といったように感じもしました。ですがその時はドイツ語を勉強していた訳ではありませんでした。また、僕はそれまで海外に行ったことがなかったので、ドイツは僕にとって初めての外国になりました。

3.準備

8月13日、Hamburg空港に到着
 合格をもらってから、YFUの1泊2日のオリエンテーションが2回ありました。学んだことはとても多く有意義だったのですが、事前の宿題も出されるし期間中も追い込まれるし、なかなか厳しく、大変でした。特に語学の勉強については「危機感を持たせる」ということなのでしょう、(僕の場合は)ボコボコにされました。そして、僕はドイツ語だけでなく英語力もひどいもので、合格はもらったものの何度も英語の試験を受けなけ ればなりませんでした。焦って必死で勉強する余裕があればよかったのですが、僕は陸上部と山岳部の兼部などで忙しくしていて、焦りばかりが先行してしまいがちでした。一応は出発の10ヶ月程前から吉祥寺の「マイヤードイツ語教室」の授業に通っていましたが、週1回2時間のこの授業の他は、勉強できた時間はほぼ皆無でした。予習復習の必要な授業でそれが出来ていなかったので、悔しいほど無駄にしていました。しかしとは言っても、ネイティブであるマイヤー先生(スイスの方ですが、授業は標準ドイツ語)とのコミュニケーションは自信になり、かつ教科書的なドイツ語とは違った生きたドイツ語会話の勉強ができましたから、ドイツでの生活と言語習得の大きな力になったことは確かです。
 僕は直前まで両方の部活を続けましたが、こんな危機的な状況の中で自己記録を狙って陸上の試合を走ったり、出発2週間前に山岳部の合宿で西瓜を背負って小屋まで登るといったことが、どれほど「危機感のない馬鹿なやつ」か、想像してみてください。留学がこれで成功するなんて証拠はどこにもなかったうえに両立なんて全く出来ていなかったわけで、時には自分でも非常に不安になる事がありました。しかし、詳しく後述しますが、これらは決して無駄ではありませんでした。
 また、YFUでは出発前にホストファミリーに読んでもらう自己紹介の文章(手紙)を英語で書くのですが、何もわからない中でこれは本当に苦労して、今思えば少し的外れなくらい一生懸命に書きました。これは英語科のK先生にたくさん手伝って頂いて、とても感謝しています。ホストファミリーが決定してからは何度かメールのやり取りもしました。
 荷造りも含めたあらゆる準備が進まないでいるうちにあっという間に夏が来て、8月13日、とうとう僕はドイツ行きの飛行機に乗ってしまいました。その日のことは、鮮明に覚えています。

>次号へ続く(3月5日の掲載を予定しています。)

本連載はYFU第59期(2017年帰国)ドイツ派遣 佐原慈大さん が、帰国後に自身の体験を綴った体験記を纏めたものです。無許可での転載を禁止します。